『広島陸軍被服支廠』~広島県

 

今年、2020年は原爆が広島、長崎に投下されて75年になります。

広島に原子爆弾が落とされた痕跡は原爆ドームや今も走っている被ばく電車はよく知られていますが、
今回ご紹介するのは「被服廠(ひふくしょう)」と言われる建物です。
正式には「広島陸軍被服支廠」と呼ばれる、被ばくした建物です。
昨年辺りからメディアに取り上げられはじめましたが、それまではこの建物の存在は広島に縁がある
私でも聞いたことすらありませんでした。

 

今年の春に取材予定でしたが、コロナの影響でキャンセルに。
この夏、行ってきました。

 


L字型の敷地に手前一列の3棟、奥に一列の1棟を今日まで遺している。

 

広島市南区にある被服廠は、現存する4棟においては大正2年の1913年に竣工。
現在は4棟のうち、1棟は国、3棟は県が所有しています。
戦時中は工場や倉庫のような建物で、生徒達がこちらで働いていたようです。
こちらでは主に軍服や軍靴などを製造していたようです。
実は私の祖母も小学生の当時ここで働いており、祖母の記憶ではピストルの部品などを作らされていたと
聞いています。

被服廠の敷地内に入るには広島市に事前予約が必要ですが、建物内部までは入れません。
今回はスケジュールの関係で予約ができず、外から建物を見学することにしました。

 

 

 

 

現地へ行ってみるとレンガ造りの建物が道路に面しており、外壁は無く触れることもできます。
驚いたことに窓を守る大きな鉄製の扉が反り返って曲がっており、これは原爆の爆風で
このように曲がってしまったとのことです。

 

 


建物西側の曲がった鉄扉は75年前の当時のまま。原爆の恐ろしさを遺している。

 

見たらわかるのですが、風の威力だけではこのような重厚な鉄扉は曲がるわけはなく、
この建物はどれ程の温度の爆風を受けたのかを想像してしまいます。恐らく数千度。
被服廠は爆心地から2.670m離れていますが、この鉄扉を見た時に『街が焼けた』という表現の
意味が僅かながら、わかった気がしました。

 

戦後の被服廠はどのような利用をされてきたのでしょうか。広島県に問い合わせて資料を
送っていただきました。
終戦の翌年からは広島高等師範学校(現在の広島大学教育学部)として使用。
その7年後には広島工業高校の校舎の一部として使用されました。
また1956年から95年までは日本通運に貸していた時期もありました。
(94年には広島市が被爆建物として登録)
その後、この建物の利活用としては、エルミタージュ美術館分館(2000年)や折鶴ミュージアム
など検討案は上がりましたが、いずれも見送られます。

 

その後は歴史的建造物の酷い末路によくあることですが、解体案を持ち上げ通すために耐震性問題が
提起されます。それにより県は1棟残して2棟を解体することを表明しました。
しかし、保存を求める市民団体がこれに動きます。
記者会見を開き「核兵器廃絶に役立つ施設である」と怒りをあらわにします。また、地元の若者達の
団体が全棟保存を求めて15,000を超える署名を集めました。
そして多くの人々が動いたことによって、今年の2月、県は解体案を見送る決定を下しました。
現在利用方針を議論中とのことです。

 

現地で被服廠を見て思ったことは、原爆ドームよりも核兵器を使用する恐ろしさを強く感じたこと。
また被服廠の現在もがっしりとしたレンガ建物を見ると、一方で僅かな外壁しか残っていない原爆
ドームは75年の風化と伴って朽ちたわけではなく、あれは原爆そのものによるものであることが
よく解ります。

 

ここ数年、核を持った国々がギスギスとした関係になっています。被服廠の価値や管理を決めるのは
広島県や日本ではなく、世界規模で考えるべきではないのかということを教えてくれたのが、保存に
動いた市民団体の人々だったのではないでしょうか。

(マイサトでも被服廠の利用アイデアを募集致します。)

 

 

 

                                   広島陸軍被服支廠
広島市南区出汐二丁目827 番35,827 番37
お問合せ:広島市役所/広島県庁

 

 

 

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